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展示予定の仏舎利・リンセル(=Relics) (展示物はゾパ・リンポチェあるいは巡回展責任者の意向により変更の可能性があります) |
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カーシャパ仏 釈迦ムニより以前に現れた、第3番目の過去仏。カーシャパはバラモンとしてインドに生まれた。釈尊同様、ブダガヤの菩提樹下で悟りを開かれた。 カーシャパ仏の教え “悪業をなす無かれ。優れた徳という宝を貯え、自我を克服せよ。これが仏陀の教えだ。” |
出展品の由来 この歯の断片はカーシャパ仏の体の一部であった。チベットの僧院でギャルワ・エンサパ像内部に納められていたもの。中国共産党軍の侵攻により、像は破壊されたが、仏舎利は秘匿され、後にサキャ派の僧侶が入手し、3つに分割して、1)サキャ・テンジン・リンポチェ; 2)チョギェ・ティチェン・リンポチェ; 3)ゾパ・リンポチェに贈呈された。 チョギェ・ティチェン・リンポチェはボーダ仏塔に隣接する僧院内の3階分の高さのある弥勒仏の王冠にこの仏舎利を納めた。その時ボーダ仏塔に虹がかかるという瑞祥を見た。 チベットから持ち出された小さい歯片は2002年にラマ・ゾパ・リンポチェに贈呈された。 中型の歯片はチベット政府所管の宝物館所蔵であったが、1999年、ダライ・ラマ法王の侍医、ワンゲル氏からゾパ・リンポチェに贈呈された。 その他の3個の小さい仏舎利はFPMT仏舎利展の巡回展示の間に出現した、瑞祥である。 |
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釈尊 釈迦は現在のネパール国境付近(インド説も)のカピラヴァストゥで、国家を形成していた釈迦族の出身である。釈迦の故郷であるこのカピラヴァストゥは今のネパールのタライ地方の小さな共和制の国で、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国であった。家柄は王 (raaja) とよばれる名門であった。このカピラヴァスツ国の城主、シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘・マーヤーを母として生まれ、ゴータマ・シッダッタと名づけられた。 |
出展品の由来 釈尊の血の仏舎利は、ビルマのメイクティラ仏舎利博物館所蔵で、博物館を所管していた僧院長により寄贈された。 釈尊の頭部の仏舎利は、ゾパ・リンポチェの弟子、台湾のウー・ウェン・ユエン氏から寄贈されたもの。2001年、台湾でのゾパ・リンポチェ長寿祈願プジャの際に贈呈された。 細片の仏舎利はタイの僧侶が、マレーシアまで持参して贈呈したもの。 白い薄片の仏舎利は上記、ビルマのメイクティラ仏舎利博物館から。 大粒1個と小粒3個の仏舎利はインドネシア、ボロブドールから。ゾパ・リンポチェの要請により、高僧から譲り受け、マイトレーヤ・プロジェクトの大仏のために、とリンポチェが長年保持してきたもの。 純白の仏舎利は、ゾパ・リンポチェの弟子、ウー・ウェン・ユエン氏から寄贈されたもの。 |
血の仏舎利
頭部の仏舎利
ダライ・ラマ法王から贈呈
ビルマのメイクティラ仏舎利博物館から。
ボロブドールから。
白い仏舎利 |
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目連聖者 釈迦の内弟子の一人。弟子中で神通第一といわれる。正しくは目犍連であるが、略して目連といわれる。また十大弟子の一人として数えられ、筆頭だったので、Mahaa(音写:摩訶、訳:大)をつけて摩訶目犍連、大目犍連などとも記される。 シャーリプトラ 舎利弗(しゃりほつ) 舎利子とも書く。智慧第一。 『般若心経』では仏の説法の相手として登場。
アーナンダ 阿難(あなん) 釈迦の従弟。阿難陀とも書く。nandaは歓喜という意味がある。出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の世話をした。第一結集のとき、彼の記憶に基づいて経が編纂された。120歳まで生きたという。 (出典:ウィキペディア) |
出展品の由来 ゾパ・リンポチェの弟子、ウー・ウェン・ユエン氏から寄贈されたもの。 |
目連聖者
シャーリプトラ
アーナンダ |
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ナーガルジュナ 漢訳名龍樹(りゅうじゅ)は150‐250年ころ(生没年不詳)のインド仏教の僧。八宗の祖師。真言八祖(しんごんはっそ)の一人であり、また、浄土真宗七高僧の第一祖。密教系の仏教では龍猛(りゅうみょう)と呼ばれることもある。 名前はサンスクリットで、ナーガは蛇(蛇神転じて竜)、アルジュナはインド神話のマハーバーラタに登場する武将から(転じて英雄の意味もある)。日本では漢訳名の龍樹で知られる。 南インドのビダルバの出身のバラモンと伝えられ、幼い頃から多くの学問に通じた。サータヴァーハナ朝の保護のもと、セイロン・カシミール・ガンダーラ・中国などからの僧侶のために僧院を設けた。この地(古都ハイデラバードの東70km)は後にナーガールジュナ・コーンダ(丘)と呼ばれる。 大衆部・上座部・上座部系説一切有部、さらには当時はじまった大乗仏教運動を体系化したともいわれる。ことに大乗仏教の基盤となる『般若経』で強調された「空」を、無自性に基礎を置いた「空」であると論じて釈迦の縁起を説明し、後の大乗系仏教全般に決定的影響を与える。このことにより龍樹菩薩は「大乗八宗の祖」として仰がれている。 彼の教えは、鳩摩羅什によって中国に伝えられ、三論宗が成立。また、シャーンタラクシタによってチベットに伝えられ、ツォンカパを頂点とするチベット仏教教学の中核となる。8世紀以降のインド密教においても、龍樹を著者とする『五次第』などの多数の文献が著された。日本には三論宗が伝来したものの衰退してしまい、この教義を中心に据える特別な流派は存在しない。しかし、大乗仏教のほとんどの宗派では重要な存在として「八宗の祖」と呼ばれ崇められている。(出典:ウィキペディア) |
出展品の由来 美しい真珠様のリンセルはチベットで奉られていたもの。 |
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イェシェ・ツォギェルの手紙 イェシェ・ツォギェルは、チベットに仏教を伝えた、グル・パドマ・サンババの霊的配偶者。展示物はイェシェ・ツォギェルからグルリンポチェにあてた手紙2通の断片。 |
出展品の由来 チベット語の手紙。一葉は紙に、もう一葉はバナナの葉に書かれている。チベット由来。 紙片のほうは仏の身口意を得るムードラの教え。裏面には8種の精神障害についてと、ビシュヌについて書かれている。 バナナの葉には、自覚、探求、超越の文字が見られる。 |
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アティーシャ (982
- 1054年) は主にチベットで活躍したインドヴィクラマシラー寺院出身の仏教僧。サキャ派のコンチョ・ギェルポ、カギュ派のマルパと共にランダルマ王以降衰退していたチベット仏教の中興の祖の一人である。 アティーシャはチベット仏教界に「菩提心(en:Bodhicitta、チベット語lojong)」の重要性を説き、それを理解するための手法を洗練し、体系化した。また、自らの生き方を示すことによって菩提心の精神の実例を示したためである。 次に、チベット仏教の多くの宗派に影響を与えている。アティーシャの重要な弟子であるドムトンはカダム派の創始者と考えられており、カダム派はチベット仏教4大宗派の一つゲルク派にも繋がっている。これらの宗派は禁欲生活と菩提心を教義の中心としており、この精神は後にニンマ派、カギュ派、サキャ派にも取り入れられた。 また、アティーシャは釈迦の死後の大きく変貌した仏教の教義から、本来の釈迦の教えのみを抽出する研究を行っており、現在の仏教史と仏教研究にも影響を与えている。(出典:ウィキペディア) |
出展品の由来 10世紀造の鉄製舎利容器に納められているのは、アティーシャの仏舎利。アティーシャの弟子、大翻訳官、ロツァワ・リンチェン・ザンポに与えられたもの。 白い仏舎利は、サキャ・ジグドル(ダグチェン)リンポチェから、ゾパ・リンポチェに贈呈されたもの。もともとはチベットのサキャ派宝物庫に納められていた。 |
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ミラレパ 11世紀半ばに生まれたチベットの伝説的な聖者。裕福な父の死後、叔父にその財を奪われたのを恨み、魔術により伯父一家を殺害してしまう。後にこれを懺悔して、翻訳官マルパに師事し、ひたすら苦行を行い、ついには悟りを得たといわれている。ミラレパは多くの歌を残し、今でも吟唱されている。 |
出展品の由来 ゾパ・リンポチェの弟子、ウー・ウェン・ユエン氏から寄贈されたもの。 |
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ゲシェ・チェカワ 13世紀初頭チベット生まれ。師のシャラワについて思考変容の行を14年修めた。この修行によりゲシェ・チェカワは菩提心を獲得した。思考変容の教えの要点は、厭世観・菩提心・正見である。日常の困難を、悟りを得るための糧に変容する術を学び、不快な情況を用いて、一切衆生に利益するための方便とし、福徳を得る因に変えてしまうのである。 75歳で生涯を終えるが、彼は家族や友人への執着を断ち切り、平等観を持って人々に接し、個人的な好悪の感情は無かった。俗世の楽しみに対する執着も皆無で、名声・富を求めることなく、人からの賞賛も避けた。 臨終の時、弟子に早く供物を供えるように命じ、嘆きながらこう言った。 「地獄界に行って、そこの衆生を救いたいと祈っていたが、それはかなわぬようだ。浄土の景色を見たからね。」 |
出展品の由来 中国共産党軍のチベット侵攻により破壊されたラサの寺院から、ラサにすむチベット人家族が回収し、秘匿されていたリンセルが寄贈された。 |
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ツォンカパ大師 (1357年 - 1419年)チベット仏教最大の学僧であり、代々のダライ・ラマの所属する宗派ゲルク派(黄帽派)の開祖。本名はロサン・タクパ(blo bzang grags pa)。アムド地方ツォンカ(湟中・タール寺の所在地)の地に生まれる。ツォンカパとは「ツォンカの人」という意味である。守護尊(イダム)はヴァジュラバイラヴァ。 アティシャの『菩提道燈論』に範をとって主著『菩提道次第論』を著し、仏教のあらゆる教説は行者が凡夫から悟りへと至る修行の道程として統合されるとする「ラムリム」(修行の道程)の思想によってチベット仏教教学を大成した。また、『秘密道次第』を筆頭に密教的著作も数多く残している。 思想的には中観帰謬論証派(プラーサンギカ)の立場をとり、顕教においては特にチャンドラキールティの説を奉じた。また、それと呼応して密教教義の解釈にも中観派的な視点からの捉え直しを行い、なかでも性瑜伽などを観想上のものと規定することで、左道密教的な実践を廃し、修行者に持戒を求めたことは、綱紀の粛正の面で大きな役割を果たした。 1419年、自らが開いたガンデン寺で死去。墓(廟所)は同寺内にあり、チベット仏教の伝統により遺体はミイラ化されて保存されていたが、文化大革命に伴う寺の破壊に伴い遺体も散逸した。現在は再興した寺に再建された廟に、回収された遺骨の一部が納められている。(出典:ウィキペディア) |
出展品の由来 ツォンカパ大師存命中のこと、自分の歯を愛弟子のケートプジェに渡そうとしたところ、他の弟子も師の歯をほしがったので、大師は歯を祭壇に供え、供養し読経したところ、その歯は9つに増えたので、大師は弟子達に分け与えた。 展示物はその時出現した9つの歯片のひとつ。1987年、チベット・ラサを訪れたラマ・ゾパ・リンポチェに、南インドのセラ・メ僧院のウェサール・リンポチェから贈呈された。 |
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ギャルワ・エンサパ 16世紀のカダム派の成就者。ミラレパと同様に一代で悟りを得たといわれているが、エンサパはミラレパのような苦行を経ずに悟ったといわれている。 幼い頃、輪廻世界を果てしない火焔の姿と見て、出家を決意した。11歳でチョコール・ウディン僧院に入り僧院長のダクパ・ドンドゥップに得度を受ける。世の中の諸相を哀れみ、衆生に対して大きな慈悲を持って接した。「如何にしてこの哀れな衆生を制御不能な輪廻の牢獄から救えるだろうか?」 ギャルワ・エンサパは悉地を得るために、ペマチャンに赴き、深山幽谷で、時を忘れて修行を積んだ。21歳の頃には一昼夜続けて悉地にとどまることが可能になった。その後は、如何なる時も大楽とともにあった。 「聞思修の第1の目的は自分の意識を統御することである。次に、煩悩を滅する手段として、一点の曇りも無い理論によって修行の道を検証しなければならない。 |
出展品の由来 ゾパ・リンポチェの弟子、ウー・ウェン・ユエン氏から寄贈されたもの。 |
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カルマパ1世 チベット仏教、カギュ派の宗祖。初代カルマパは84歳で遷化したが、彼の心臓は火葬後もそのまま残り、遺骨は仏の姿を現した。第17世カルマパは近年インドに亡命し、ダラムサラに住する。 |
出展品の由来 2組のリンセルはカルマパ1世、ドゥスム・キェンパのもの。ゾパ・リンポチェの弟子、ウー・ウェン・ユエン氏から寄贈されたもの。 |
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ラマ・ツプテン・イェシェ
FPMT創始者。1984年、49歳で遷化。彼の転生者、ラマ・オセル・リンポチェは、ラマ・イェシェの弟子のスペイン人家族から見出された。 |
出展品の由来 ラマ・イェシェの遷化以来、ゾパ・リンポチェはこの美しいリンセルを大切に保存してきた。 |
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ゲシェ・ラマ・コンチョク
1927年チベット生まれ。ティジャン・リンポチェの指示により、ミラレパゆかりのネパールのツム洞窟で瞑想行を9年間修めた。お篭もり最中に、食料のツァンパが底をついてしまったので、コンチョク師はグルに祈りを捧げると、その日のうちに、ある男が、ツァンパの袋を担いで洞窟に現れた。それからというもの、ツァンパが切れそうになると、誰かが洞窟まで、食料を届けてくれた。コンチョク師は、これは師匠の加持と導きであると感服し、自分の運命を師に委ねた。 1984年からコパン僧院に住み、亡くなるまでの18年間、コパンの僧侶・尼僧に修行により体得した智慧や経験を説いた。2001年10月15日に遷化したが、その時弟子のテンジン・ゾパ師に残した言葉:「やり残したことは無いようだ。十分満足している。後悔は無い。」 コンチョク師の遺体はコパン僧院で荼毘にふされ、火葬後、遺灰の中から100を越えるリンセルが発見された。葬儀の際にはまっすぐな虹が出現した。この模様はFPMTにより、映像に納められている。 |
出展品の由来 2004年、モンゴルにおいて、ゲシェ・ラマ・コンチョク師の弟子である、テンジン・ゾパ師から、マイトレーヤ・プロジェクトのために、とゾパ・リンポチェに贈呈された。
テンジン・プンツォク・リンポチェ(ゲシェ・ラマ・コンチョクの転生)とラマ・ゾパ・リンポチェ。 |
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