寺子屋 度学寸塾 その1 普賢菩薩    

DNSJの私、藤原聖也担当のクラスにも来てくれたクリスチャンの友人から普賢菩薩ってどんな人?との質問を受けました。そこで…
三尊形式というのを御存じでしょうか。主となる尊像が、左右の脇に一対の尊像を随える形で祀られるもので、釈迦が中心だと釈迦三尊といいます。一般的に、主尊が何であるかによって、脇に随従する二尊(脇侍という)も決定します。
普賢菩薩は、文殊菩薩と共に、釈迦如来の脇侍となります。最も一般的な姿は、文殊が右手に剣、左手に経典もしくは経典をのせた蓮華を持ち、普賢は合掌して、文殊は獅子、普賢は六本の牙を持つ白い象に乗っていることも多いです。そして、主尊がお持ちになっている御徳を二分割したそれぞれが、各脇侍の持つ徳性と一致するとされます。具体的に説明すると、仏とは智慧と慈悲が完全となっている存在ですが、文殊が釈迦の具える智慧を、普賢が慈悲を体現している存在という訳です。また智は、定(精神統一)によって生じる為、この二者も一対となり、文殊が智徳を、普賢が定徳を表します。また、理と智も対になるので、理徳を普賢が表し、そして、さとり(証)と修行も対となり、文殊が証徳、普賢が行徳を表すのです。これらの徳は、釈迦のものであるとともに、一切の諸仏の徳に他ならないのです。
また、文殊菩薩は法王子と呼ばれ、修行者はすべからくしたがうべき存在と説かれます。華厳経において普賢菩薩のたてた誓いである十の修行の願いが説かれます。

一、諸仏を敬い礼拝す。
二、如来(仏)を称賛す。
三、広く供養を修す。
四、業障(因果の報いである障害)を懺悔す。
五、功能を随喜す。(自他の善行に喜びの念を抱く)
六、法を説いて頂くことを請う。
七、仏が世に留まることを請う。
八、常に仏に随って学ぶ。
九、恒に衆生に順う。(生けるものの性質に応じる)
十、あまねくみな回向す。(修行をすることで生じるよき報いを一切の存在の真の幸福の為に捧げる)

これらは大乗の修行者全てが行うべき実践徳目とされ、チベットではこれを七つに集約した【礼拝・供養・懺悔・随喜・(転法輪―説法のこと)勧請・(仏在世)祈願・回向】の七支が一々の修行のセッションに盛り込まれます。

つまり普賢菩薩は、大乗実践者の御手本が尊格としての姿をとってあらわれたような存在とも云えましょう。この菩薩の我国で最も流布している真言は、『おん さんまやさとばん』です。文字通りに訳せば、「オーム あなたは三昧耶なり」といったところでしょう。“オーム”は真言句の句頭に最も多く出てきますが、神聖な意味や力を多く凝縮して持っていますので、あえて訳しませんでした。三昧耶というのはサンスクリット語でサマヤといい、約束、誓いを表します。
またこの真言は普賢菩薩の真言としてとなえられますが、それよりも『三昧耶戒真言』として、日本の密教修行者には常用されています。密教の修行者が、大乗の目的の為、命をかけて守るべきとされる密教の戒律を、三昧耶戒といいます。この真言をとなえて三昧耶戒を堅固にし、遵守する決意を強く心に刻むという訳です。
密教では、密教修行者の理想像ともいうべき金剛さった(注)という菩薩と自身を重ね合わせ、自らが金剛さった(注)であるとの自覚のもとに修行することとなりますが、この金剛さった(注)と普賢菩薩は同体であるとされています。
これらを考えれば普賢菩薩の真言と密教の戒の真言が同一なのもうなずけるでしょう。

 続く…


(注)
「さった」の「さっ」は菩薩の「薩」で、「た」は"つちへん"に「垂」の字をあてますが、表記できないためかなで書いています。


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